尾見怜:五〇九号分室

小説・映画・音楽の感想

映像化すると退屈になるミステリをどうやるのか その最適解 市川崑:犬神家の一族

市川版金田一耕助の映画シリーズは、だらだら続くシリーズものが大嫌いときている私が一番好む映画群である。

まず市川崑という監督。この人はふざけているのかと思うほどカット割りのテンポが早い。岡本喜八庵野秀明、「ファイトクラブ」のD,フィンチャーなどが同系列だろう。
おそらくはサービス精神とせっかちな性格によるもの。とにかく彼らは冗長な説明カットや中だるみしたシーンの連続が大嫌いなのだろうと推測する。
というか、みてる人が退屈してはいかん、と半ば偏執的に間を嫌がっているのだ。相米慎二押井守と対極である。押井守に至ってはダレ場をわざと作るし。

市川崑に関してはそれが顕著で、笑ってしまったのが同シリーズの「病院坂の首括りの家」で、ぽっと出のキャラが古本屋で長々と本を読み上げるシーン。
結構な情報量のセリフを読むのでダレると市川は思ったのか、その本を読み上げる女優を3方向から撮って、高速で右、正面、左とカットを切り替え、
それがだんだん高速化していくというパチンコの大当たりのようなせわしないシーンとなった。アークティックモンキーズの初期みたいなテンポ感でカットするんだもの。
誰がこれセリフをちゃんときくのか。退屈どころが笑ってしまうのである。

犬神家でも、説明シーンには決まって退屈させないためのカットが挿入される。琴を弾くカットをインサートしたり、目の動きだけのカットを高速で切り替えたり、
要はミステリを映画でやる退屈さ(詳しくは春日太一さんの「市川崑と『犬神家の一族』」を読もう!)を演出でなんとかしよう(しすぎ)としているのである。

市川版金田一は俳優の使いまわしが多い。私が大好きなところは、毎回人間関係がリセットされるところだ。こんなシリーズほかにあるんだろうか?
なのでどれから見ても楽しいし、毎回金田一が初対面なので、人間関係が一から作られる楽しさを毎回味わえる。
シリーズ物が苦手な私の最も好むところである。(要は複雑な人間関係を前作があることによって説明しないという怠惰な態度が嫌い)

遺言発表後の三姉妹が異議をまくしたてる→小夜子泣く などの大混乱のシーンは圧巻。これ撮るの相当難しかっただろうが、大物おばさん女優が3人ぶちぎれてセリフを重ねるというシーンはこの映画以外見たことがない。
「ナイヴスアウト」でも同じような遺言発表からの遺族ブチ切れシーンがあったが、基本的にあの映画はアメドラみたいな軽さが全シーン途切れることはなかった。十分面白かったがメリハリが無く退屈してしまった。美術とかすごかったけどね。でもあんな落ち着かない家やだ。犬神御殿は案外泊まってみたい"

スケキヨマスクだとか沼にはまった死体のインパクトが取りざたされるが、演出や音楽、セリフと唐突に挿入されるコメディが素晴らしいのだ。
トリックやケイゾク堤幸彦はドラマでコメディ部分に市川崑っぽさを出していて期待したが、映画の才能はまったくなかったみたいで。

犬神家をほめる文脈でいうと、たいていスケキヨの怖さ、死体のインパクト、坂口良子の可愛さ、オープニングのタイポグラフィあたりがあげられる。
もっともっと好きなところはいっぱいある(猿蔵の飛び込みの無駄な美しさとかおどろおどろしい建築とか那須の景観とかゴッドファーザー意識しまくりのメインテーマとかモノクロ演出とかコマ送り演出とかラストシーンのさわやかさとかetc)。もう書ききれないくらい好きの詰まった映画である。あと何回観るだろうか。

だが自分自身おかしくてしょうがないのだが、何回も観ているのにストーリーの本筋をいまいち理解できていないのである。誰が何で殺されたかとか毎回忘れている。
ここであいつとあいつが入れ替わってどうのこうの、みたいなのがいまだにわかってない。
説明されても画面を観すぎて理屈が頭に入ってこないから、という言い訳をしてみるが、なんとも情けない話である。それもこれも市川崑が私を甘やかすからである。