平成に刊行された小説の中でも間違いなくトップ10に入るであろう大傑作。
分厚いからみんな読まないのかなぁ。超面白いのに。好きでたまらない。
本作は日本の近代小説の金字塔です。ゼロ年代は海辺のカフカじゃなく今作を中心に語られるべきだった。
ユーモラスでひらがなを多用し簡易な単語ばかりの河内弁を使ったセリフ回しと、作者のツッコミが光る地の文とのグルーブはどのページをめくっても気持ちがいい。
読んだ当時ぶったまげました。筒井康隆以上にふざけてて崩壊寸前。これは「純文学」なのです。文章を味わうことができる。これが美味美味。
ふざけてて笑えるのに、エンタメとしても超優秀なのです。これがまた。これほんとうにとんでもない傑作ですよ。「文学」なのにエンタメ小説が太刀打ちできないほど面白いんだから。
河内音頭のスタンダートナンバーである「河内十人切り」恋愛+ギャンブル+犯罪+ファンタジー要素もあり、総合小説といっていいのでは。
ここ最近はやりの大どんでん返しだったり、伏線貼りまくりのテクニカルな構造を取っていません。それもまた硬派ですばらしいのです。アイディア勝負ではない。プロットに頼らない。超一流作家の横綱相撲です。
ちなみに文壇文学賞の4大タイトルともいわれる芥川賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞、川端康成賞すべての受賞者は大江健三郎、大庭みな子、河野多恵子、丸谷才一、そして町田康です。存命なのは大江さんと町田さんだけですね。なにが言いたいかと言うと、ほんとうにすごい作家ということ。その凄みが一番感じられる、代表作がこの「告白」なわけでございまする。
いくら褒めても褒め足りないのでここらへんでやめます。
以下あらすじ
時は明治。
河内の水分というところに住む、城戸熊太郎というどうしようもない農民が主人公です。その熊太郎がまあ不器用で怠惰。
あかんではないか。
ろくでもない奴なのですが、それは農村での規範から照らした場合のこと。この時代には珍しく、思弁的、内省的な人間だったのです。
彼は生きづらさを感じています。彼の中には伝えたいことがたくさんある。抽象的で画一的な表現では伝えきれない複雑な思いが、胸中でぐるぐるしている。
熊太郎の不幸は、それを他人に伝える「言葉」を持っていなかったのです。
河内弁を使う周囲の人間は良く言えば無邪気、悪く言えばぶっきらぼうなアホです。人一倍繊細な熊太郎は彼らとうまくやっていけません。
だって、使っている言語が、熊太郎の心理を表現するには足りなかった。町田康は、知らない言語の国に迷い込んだ旅人のよう、と形容しています。
それが彼の人生を、見れば最高に滑稽で悲惨なものにする。
熊太郎はこの小説の中で、様々な体験をします。神懸った神秘体験、賭博、金銭トラブル、恋愛、盆踊り、婚姻、暴力沙汰。
周囲との意思疎通がうまくない熊太郎は、そこでやりきれない思いをかかえながらも懸命にがんばるのです。めっちゃ傷つきながらも懸命に。
しかし35歳になったある日、限界が訪れます。金をだまし取られ、最愛の嫁も寝とられた。さらに集団でボコられ半殺しの憂き目にあった熊太郎。
相手は熊太郎をアホと決めつけて何かと迫害してくる金持ちのぼんである松永熊次郎。
唯一の弟分である弥五郎と決死の復讐へと向かいます。田畑を売り払い、武器を買い込み、肉親に別れを告げる。
かの有名な、「河内十人切り」でございます。
熊太郎と弥五郎による、松永一家皆殺しです。
その時熊太郎は獅子舞の面をかぶります。獅子舞の内側の暗闇の世界と、まだ生まれて間もない赤子でさえ容赦なく切り捨てている現実世界。その半々を熊太郎は見ています。
自分の脳内と現実には暗闇が挟まっていて、本当の気持ちだとか、やる気だとか、恋する気持ちだとかが、その暗闇のようなものでさえぎられてきた。
コミュ障、というには重すぎる熊太郎の人生はそれから絶望的な様相。
大量殺戮を終えた後は山に潜むふたり。周囲は警官に囲まれている。
熊太郎は一世一代の「告白」を、弥五郎に、神様に、そして自分自身に試みます。今まで自分が何を感じて生きてきたか。言葉を懸命に探すのです。
その最後の「告白」がほんとうにやりきれない。今まで熊太郎と一緒に苦しんできた読者からしたらもうたまらない。訳の分からぬ感情でいっぱいになる。
たった一言に集約されるのです。その後、熊太郎は自害します。
三島川端の美しい文章もいいけど、ぎりぎりを攻めた壊れる寸前のポストアポカリプス的文章、かつここまでのカタルシスをもたらすプロット。
湊かなえのほうじゃないよ。映画の出来が良すぎたからこっちが目立っているけど、小説で「告白」といえば町田康のほうでまちがいない。
思い入れが強すぎていつまでも文章がまとまらないっす。
ぜひ読んでみてください。