今日は高円寺へ向かう。方南町から一時間弱歩く。
今回も電車に乗らなくて申し訳ない。いずれ絶対乗りますんで。
高円寺で1番安くて、満足度が高い飯を探すのだ。これから金銭的につらい無職の日々が始まる。絶対に1000円以内に抑える。理想は500円で腹いっぱいかつ美味い、という無茶な要求をかなえられる街は高円寺しかなさそうである。
大きい道を歩かずに、あえて住宅街を通る。私は市井の人々が暮らす家の門構えを見るのが結構好きである。家族構成や人となりを想像して楽しむのだ。じっくり見ると不審なので、それを歩くスピードに合わせ、結構大急ぎでこなしていく。
ここは金持ち、金持ち、子沢山、LUUPがあるのでいけ好かない奴、金持ち、やや貧しい、選挙ポスターだらけ、老人一人住まい、金持ち、金持ち…
正直みんなお金を持っていそうでうらやましい。どうやったらこうなるのか。
37歳の今でさえ、どうやって家を入手して家族を築くのか、方法がわからないのだ。一般成人男性として、私が逃げてきた様々なことをかなり我慢しなければならないことはわかる。持ち家を買えた人はもっと自慢していいと思う。家を買った苦労を自慢しまくる会、みたいなのを開催してみたい。別の星の出来事だと感じるだろう。
おそらくここが妙法寺だ。
イチョウの落ち葉の黄色が綺麗であった。木はダントツでイチョウが好きだ。
イチョウの黄色と、アジサイの青が街を歩いていて一番楽しみだ。
この文章は音声入力なので、毎回「胃腸」と誤変換するのに腹が立つ。
ただこの黄色の鮮やかさは写真が下手すぎるので写っていないだろう。
神社仏閣に入ると心持ちが空っぽで凪状態になるのがうれしい。
昨日上司に退職すると告げた人間とは思えない。昨日の心中は嵐そのものだった。
すべてを失って真の自由を得る。タイラー・ダーデンはいつだって心の師匠だ。
またたくさん歩いて安い飯を探す。日々安い宿を探す。日々安い電車でなんとかする。それが始まるのだ。
どう考えたって自分に合っている。楽しみでならない。
5年間待ち望んだ自由と工夫の時である。
幸いなことに私は3食食べなければ気が済まないと言う男ではない。昼飯1食だけでことたりる。朝はバナナか味噌汁、あるいはおにぎり1つ程度でちょうど良い。
夜はコンビニのおでんなど適当なものをちょっと腹に入れる。酒も飲まない。
そのサイクルが体調に1番良いのだ。
歩いていると、いい感じの銭湯があった。入浴料550円はやや高く感じる。
白を基調としたおしゃれなカフェは論外だ。
馴染まない落ち着かない空間に高い金を払うつもりは毛頭ない。僕は自らの意思を持ってディズニーランドに行く事は生涯ないだろう。
そんなややアナーキーな気分に浸りながら歩いていると向かいの道路沿いにひっかかるものが。
タロー軒だ!タロー軒だ!
びっくりした!急に現れた!ずっと行きたかったんだ!
行くしかない。慌てて交差点を渡る。初恋の人を街で見かけた男のようである。
写真に撮るには憚れるが、片手をポケットにつっこんだままラーメンを立ち食いする常連がものすごくかっこいい。恰好からしてタクシーの運転手だろうか。話しかけたくなるほどに惹かれる哀愁の持ち主だ。
求めていたものだ。ラーメン大盛り900円は望んでいた価格帯とはかけ離れているが…
東京ではもう貧乏人は外食できないようだ。
うまい!見事だ!
また絶対に来る!
スープを1口飲んだ途端そう思ってしまう。具のネギが立派で大きい。わかめもたっぷりだ。麺は非常に柔らかく具と比べると1番主張が少ない。常連は麺固めで頼んでいる人が多そうだ。今度来た時は絶対固めで頼むことを忘れないようにしなければならない。しかしこのチャーシュー、3枚載っているんだが、チャーシュー麺と間違えられたんだろうか。ただこのサービス過剰な具の量からして、デフォルトが3枚なんだろうか。チャーシューもお歳暮で来る高級なハムといったような見てくれなのだが、ちゃんと味がついててうまい。3枚あるのほんと嬉しい。
外国人観光客はまずタロー軒に来るべきである。東京のラーメンはこれだと突きつけたい。いや、やはりみつかるべきではない。混んでしまう。
しかしこのラーメン、手がこんでいるわけではないのだが、一切手を抜いてないことがわかる。キーになるのは具沢山なのにすべてを調和させるスープの味。まるでレアル・マドリードをまとめあげるカルロ・アンチェロッティのようだ。こういったものを、人間は愛さなければいけない。保護されなければならない。
おいしいものを食べると気分が爽快になる。気持ちのいい風も相まって素晴らしい気持ちでまた歩き出す。
さて、高円寺駅前である。
ラーメン屋が多い。割とマンションとか普通に働けそうな会社も多い。
雑踏の中カメラ片手にきょろきょろしているとなんだかおのぼりさんになった気分で悲しくなる。
とりあえず純情商店街へ向かう。
どこかのラーメン屋の張り紙に派手なフォントで「煮干し降臨!」と言う文字があった。いい加減な言葉を使っていることから、このラーメン屋は、高円寺では生き残れないだろうとなんとなく思う。タロー軒とはレベルが違う。そんな甘いところではなさそうだ。
スキーウエアにもこもこのズボンをはいた、ダサイ格好をした中学生ほど懐かしい気持ちになれるものはない。その子の母親が、センスを無視して暖かさ最優先の服装をさせるため、ちぐはぐな服装になるからである。お金はなくとも我が子に風邪をひかせたくない、という愛が垣間見える。
そしてかつての自分と自分の周りの環境にあったものの全てだから懐かしいのだ。
「純情商店街」というものを馬鹿にしていた。
だが私は今決してバカにできないことを恥ずかしく思った。
なぜかというと、本当に最近のことだが、会社の12歳年下のまだ大学生のような娘に恋に落ちてしまったのである。死ぬほど恥ずかしい話、退職理由の1つとしてそれがあるのだ。
若いころは何が純情商店街だ、寒いんじゃ、とGOING STEADYの「佳代」を聞いてその存在を知ったのだが、今はとてもじゃないが馬鹿にできない。
自分が純情というか、もはやその狂気的な想いはやっとここ数日になって少し落ち着きを見せたが、寝起きの夢と現実の間に現れて、いい年して色ボケか、と恥ずかしい気持ちにさせるのだった。
「高円寺って高円寺ってお寺があるから高円寺なの!?」
そういう私の低レベルな冗談を、カラカラと笑ってくれる女の子だった。
あのASD特有の無表情から唐突に現れる、屈託の無い笑顔をこそ私は好きだった。
寺の方の高円寺には結局行かなかった。
体力と、スマホの充電が残り少なかったからである。最近どちらもすぐに減ってしまう。
三十路後半の体力はどうしようもないが、バッテリーは替えなければならない。